ドコカンカ書庫

おさいさんとヨモが入り浸る鄙びた書庫

雲を遮る太陽の話

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現状のスタメン。三日前くらいに変えた。






去年の春先に愛車のCDプレーヤーが壊れた。



一度CDを飲み込むと、吐き出してくれない気配がした。

それまで行きはCDプレーヤーで好きなCD、帰りはスマホSpotifyというルーティンだったが、最近行きはラジオに変えた。朝は大層な寝ぼけ眼なので、スマホを操作する心の余裕がない。専らNHKの「古楽の楽しみ」という番組を聞いている。

あ、この曲いいなと思うとたいていの場合、バッハである。そうか私はバッハが好きだったのか、と気づいたのもつい最近の話である。

 

そのちょっと前(CDプレーヤーが壊れるちょっと前)、愛用していたipod nanoの充電がいよいよほんの十分ももたなくなり、スマホで音楽を聴くという選択肢がもともとない私は新しい音楽プレーヤーを探し始めた。これが沼の始まりだったのだ。

(ここから先は意味不明な単語が続く可能性があります。ご注意ください)

小型のプレーヤーを探していた私が最初に手にしたのはcayinのN3というDAP(デジタルオーディオプレーヤー)だった。

選んだ理由は、昔住んでいた深センのメーカーだったから、あと小型だったから、あとipodはもうtouchしか販売されていなかったから(最新のtouchはわからんけど、今はiphoneの音質もずいぶんよくなったねえ)。

ちなみに私の音楽プレーヤー遍歴は無名MP3プレーヤー(USB端子が付いていて直接PCに接続できて録音機能もあったからネットラジオを録音して聞いたりしていた)→ipod nano(第4世代)→ipod nano(第6世代)→ipod touchipod nano(第7世代)という具合である。

N3は持ってみると本当に軽くて(すぐ買った)。そして当時愛用していたZEROAUDIO(メーカー)のCARBO BASSO(イヤホン)ともまあまあ相性が良かった。そういえばnanoの不調と同時にイヤホンもなんだか断線気味で、まとめて買い替える時期なんかなとぼんやり思っていた。

 

 

ここで一旦イヤホンの話に。

上記のCARBO BASSOはコードがいまいち貧弱だったけど、3本くらいはリピートした記憶がある。軽い躯体ながら低音をうまく鳴らすイヤホンで、イヤーピースもなかなかにやわらかかった。その前に使っていたのが、確かJVCのXXシリーズのどれかだったと思う。低音を強めに聞きたくて、そちらに特化したイヤホンをあえて選んでいた。当時はイヤホンなら五千円までは出せるかなぁと思っていたので、既に感覚はおかしい笑

 

さて、cayin N3の入手と同時にイヤホンも良きものに変えようと思った私、何をとちくるったのか一気に3本も購入してしまう。ラインナップはこちら。

 

水月雨のSpaceShip。耳にぐいぐい押し込んで聞くタイプ。音は結構よかったけどタッチノイズが…shure掛けで耐えるべきだったのだろうか。コードもまあまあ硬かった気が。

2  AZLAのORTA 中古にて。デザインがかわいいのとライトニング変換ケーブルが付属していたのが決め手。軽やかな音を鳴らすが低音重視だった当時の私には物足りなさあり。リケーブルしようとしたら壊れてしまった涙

SHUREの215CL ついにあのSHUREに手を出す。ORTAとは異なる方向性の明瞭さと軽さ。どちらかというとこちらの方が音にあたたかみがある。付属ケーブルが合わなすぎてわりとすぐにリケーブルしてしまった。これだけは今も手元にある。ただし、合わせるDAPをかなり選ぶタイプのイヤホンだと思っている。not クラシック。

 

 早速手に入れた3本のイヤホンでいろいろな音楽を聞いてみると、それぞれ違う音がする、……気がする。

心の奥底のコレクター魂に火が付きかけてかなり危ない。でも、誰も止めてくれる人がいない(基本的に一人で新しい沼にはまって、周りに公言する頃にはもう戻れないところまで行ってしまっていることがよくある)。そして何やらさらっと書いてしまっているが、既にリケーブルにも手を出してしまっている!!!

当時の私はDAP、イヤホンの沼には既に足を踏み入れていたがそれと同時にヘッドホン、ポタアン、リケーブル、バランス接続、イヤーピースという看板が目の前に見えている状態だった。

 

やばい。本能的に思った。

 

私はハマり始めると本当に見境無いタイプである。お金とかいろいろ。最初からトップスピードで飛ばしちゃうタイプである。

 

 

とりあえず、ヘッドホン、ポタアンからは目を背け、リケーブルという沼に指先をちょこっとつけとくことにした。小指の先をね。

ちなみにリケーブルは端子、素材等々で価格にかなり幅がある。なんなら接続するイヤホンよりケーブルの方が高いなんてこともある。

 

 

私の場合は扱いやすさを重視しているので、そこまで高いのは買ったことがない。あと、L字のやつを探しがち。上記SE215は結局yinyooの青いケーブルに変えました。あみあみしてあって、きれいなブルーです。音が変わったか?と言われるとよくわからない。

 

 

その後はちょこちょこっと中華イヤホンに手を出したりして。ただ、この領域は沼どころか大海原に近かったので早々にお暇した。こちらの2本を試してから。

まずはKZのZSN(だったと思う…もう手元に無いので。きれいなグリーンだった)、値段も手ごろで高評価レビューも多かった。馬力があるけどぼやっとした音だったと記憶している。お次がKZのDQ 6。当時は今ほど流行ってなくて、価格も今より安かったような。シンプルで丸みを帯びた見た目が結構好きです。ただ、付属のイヤピはダメかも。

これはリケーブルして今も聞いている(kinboofiの純銅とかそういうやつだったと思う)。どの音域もまんべんなく鳴らしてくれるし、声を近くで聞かせてくれる。音の粒子が耳元でぱちぱち弾けているみたいな。ちょっと間を空けてから使っても違和感を感じない。

 

 話が長くなってしまったので(一応このブログには規定文字数みたいなものがある)、プレーヤーとヘッドホンの話は第2弾に譲るとして、今のラインナップの話をして終わることにしよう。

 

 

1 SATOLEXのツボミ。低音が楽しく聞けるコスパ抜群のイヤホン。プレーヤーはあまり選ばない。消耗品と割り切って何か安いの…という人にはいいかも。コードはちょっと貧弱気味だけどね。気軽に持ち歩けるのがいい。最近出番が減り気味。

2 KOSSThe Plug。知る人ぞ知るモンスターイヤホン。最初聞いたときはなんじゃこりああだったけど、エージングしていくうちにどんどん馴染んできて、密閉型ベストを選ぶならこれになるかもしれないところまで来ている。とにかくズンズン響く。没入感がすごい。安い。案の定クラシックとか、空間を重視する音楽とはあまり合わない笑 粒立てたい音さえぼわあっと響かせてしまう。コードは激弱(幸いまだ1本目は断線していない)。玄人はいろいろ改造して楽しむらしいがさすがにそこまでいけない。ひとつ欠点をあげるとすれば、しばらく他のイヤホンを使ってこれに戻ってくると、耳がこのイヤホンの良さを一瞬忘れてしまっていることかな笑 一応、派生のsparkplugも試してみたけど、やっぱりこっちの方がいい。

3 KZのDQ6。心の中でひそかにドラクエ6と呼んでいる。音については上記参照。これはあまりプレーヤーを選ばないけど、どっちかというと力のあるプレーヤーで聞いた方がいい音を聞ける気がする。私の好きなウォーム系の優等生。

4 ShureのSE215。音については上記。モニターなので何かを強調する感じではない。演奏されたまま、歌ったまま聞かせてくれる。プレーヤーはめちゃくちゃ選ぶタイプのコ。手元の中でならHiby R2に合わせるのがベストでcayinのとはなかなか相性が悪い。mmcx対応をこれしか持っていないので手放す予定はなし。

5 HidizsのMS1(マーメイドの方じゃないやつ)。本体が重くて冷たいけどそれさえ我慢できればめちゃくちゃパワフルで繊細な音が聞ける。Cayinのプレーヤーとも相性がいいので、cooyinの2.5バランスにリケーブルして(バランス接続の下りは次回するかも)、そこからプラグで何故か4.4に変換して聞いている。4.4で聞いたときの迫力がすごいよ!

6 KOSSのKSC75。絶滅危惧種といわれる耳掛け式イヤホンの一翼を担う(勝手に思っている)。イヤホンのオールタイムベストなら間違いなくこれ。長時間聞いていても疲れない、開放型なので外の音もほどほど聞こえる、耳周辺の解放感、見た目からは想像できないほど広く鳴らせるし奥行きがある、安い。ただ音量が必要なので小型プレーヤーだと良さが活かしきれないかもしれない。今使っているやつはYaxiのイヤーパッドを装着して毎日愛用中。プレーヤーにも繋ぐし、switchにも繋ぐし、ipadにも繋ぐ。とにかく万能。問題は開放型なことだけ笑 ビリーアイリッシュのbury a friendにカラっとした味付けさえしてくれる実力派。

 

以下はおまけ。ワイヤレスイヤホンは音質云々じゃなくてコレクター魂で買っている。断然有線派。

 

7 オウルテックのKXK00クロスメサイア。起動すると礼儀正しい感じの杉田智和さんの声がするイヤホン。価格の割に音はそこまでだけど接続が結構安定している。ケースの手触りが結構気に入っている。

8 オーディオテクニカのATH-MVL2 IM。本当は加瀬さん=ジャーヴィスのが欲しかったけど見事出遅れた涙オーテクは昔ヘッドホンをちょっと使わせてもらっていたんだけど、迫力ある音というイメージ。これも中々な音を鳴らしてくれる。ただ、形がちょっと私の耳には合わないかも。見た目もアイアンマンスーツそのものでかっこいい。

 

以上、イヤホンの沼に足首まで浸かっている者の戯言でした。

 

 

結婚(したくない気持ち)の研究 ヨモ

年末から、結婚にまつわる本を読んでいた。

中井治郎著『日本のふしぎな夫婦同姓』
能町みね子『結婚の奴』

結婚の予定があるわけではない。相手がいるわけでも無い。むしろ自分はなぜだか結婚したくないようだ、ということが近年はっきりとしてきた。
どころか「結婚」というものに、なんだか夢も希望もなく、する意味があるのか…?とまで思い始めている。では、なぜ?という疑問を外側から掘り下げるべく読むことにしたのです。

前者はTwitterでフォロワー3万人の非常勤社会学者ジロウさんの新書。後者は相撲界隈でも活躍中の能町さんの本。どちらもフォローしているのだけど、この2冊の共通点は、最近結婚した本人が、自らの結婚について語っているところ。


ジロウさんは、自らの結婚の際に妻の名字を選択した。しかしそれは現代日本で4%の少数派の選択だった。しかし世界的に見ると、結婚するときに夫婦同姓にするしかない国は、もはや日本だけだったのである…という話。新書だが、エッセイのような読み口で面白かった(ジロウさんのツイッターでの語り口のファンなのである)。

能町さんは元男性で女性になった方だけれど、行き詰まったひとり暮らしを打開すべく、ゲイの知人と結婚を前提にお付き合いを始める(もちろんお互いに恋愛感情ナシ)。漫画かドラマの設定のようだが、実録なのである。

どちらも多数派ではない結婚について書かれていたのだけれど、両方を読んで、結婚(したくない)気持ちの研究がかなり捗った。

私の感想
・私は名字を変えたくなかったのだ(知ってた)
・相手の名字も変えたくなかったのだ(薄々気付いてた!)
・他人と一緒に暮らせる気がしない…とずっと思っていたが、能町さんの寝ウンコ漏らしたズボンの話で、自分の弱点を見せることを怖れすぎているのかもしれないと思った
ジェンダーロールから自由な夫婦には、憧れることができそう


どうも自分は旧態の夫婦だとか家庭だとかいうものに絶望しているのであって、人と暮らす、ということには漠然とした憧れがあって、でも出来る気がしない、という辺りにいるらしい、という現状を把握することができた。

(私は女で、ジェンダーロール的にごはんを作ることを期待されがちな側だが、自宅ではおおむね力尽きて倒れているので、それ(よき妻だとか母だとかいうもの)になることはおよそ絶望的である)

自分の内面はさておき、選択的夫婦別姓がはやく選べる世の中になればいいな。あと、同性婚も出来るようになったらいい。それで救われる人は多いはずなので…。


2冊を読み終えて、なるほど捗った。と思っているところに、昨年チケットを取っていた芝居を見に行くタイミングが重なった。

寺山修司作 音楽劇「海王星」である。

この作品も、テーマは「結婚」。偶然なのか、必然なのか、さらに結婚について考えを進めることになった。(次回に続く)

ああ、大変口ずさむだけで泣きそうだ

 

サイハテホーム

サイハテホーム

  • provided courtesy of iTunes

 

サクラメリーメンのライブには一度だけ行ったことがある。

「キャラクター」というアルバムが発売されてすぐの頃だ。二度目の下北沢。通りすがりにカレーに匂いがした。地下のライブハウスにビクビクしながら入っていって、財布の入ったショルダーバッグをぎゅうぎゅうに握りしめながらライブを楽しんだ。耳慣れたベース音が聞こえるだけでよかった。ここにあるのはピンクグレープフルーツで、オレンジジュースで、三ツ矢サイダーなんだと何度も思った。

 

私は「待ちぼうけ」という曲でサクラメリーメンと初めましてをした。

四畳半の部屋に寝転がって歌う不思議なMVだった。何となく、キンモクセイをもっと甘酸っぱくしたような感じだなと思った。明るく影を残していく歌だなと思った。テキトーにアイサレタイというフレーズがやけに耳に残った。そう、出かけなくてもお金は使えるので、なるべくなら風邪を引いて寝てたい のである。

それは否定的な否定ではなくて、楽観的な否定だなと思う。そしてどちらも時折びっくりするくらい闇を孕んだ曲を書いたりする。

 

今年の春から昼食の時間にヘッドホン片手に短い散歩を始めた。

気づいたことがたくさんある。

ある運送会社のトラックがいつも同じ場所に停まっている。

見るたび空瓶でいっぱいの空缶がある。

大会社の前ほど落ち葉は片付いていない。

タンポポが意外とたくさん咲いてる。

落ち葉を踏みしめる感覚は最高で、できることならこのまま寝転がりたいと思う。

どんぐり拾った。鉢植えに落としておいた。

 

KOSSの開放型ヘッドホンで音楽を聴いている。シャッフル。基本私はシャッフルが好きだ。自分の頭の中とおんなじでぐっちゃぐちゃ。混沌の渦そのものである。

 

サイハテホームのイントロが流れると、まだ浮かびもない涙を想像して少しだけ顔をあげる。

マスクの下で一緒に口ずさむ。

これは私が全く体験し得なかった青春の歌だ。特に体験したいとは思わないけど、側から関わりたいなとは思う。当て馬は嫌だけど背中を押す頼りになる姐御みたいな存在にはなりたい。

そんなことはどうでもよくて、とにかくメロディーがいい。シンプルな3ピースバンドはこれがいいんだよなぁと思う。

 

地図上の世界では君の街なんてすぐそこなんだけど、電車に乗って、居心地の悪い椅子も我慢して会いに行きたいなんて、そんな世界がどこかにあるんかなあって毎回、夢を見させてくれる。

 

散歩は、なるべく、生涯歩数を増やすために続けたいです。

 

 

 

君の幸せを願う偽善者より

 

 

今回の作品:アフター・ウェディング

監督:スザンネ・ビア

2006年

 

彼らはお互いに見つめ合おうと努力している。瞬きもせず、その瞳をきゅうっと丸くする。

 

目のアップが多用されるのはスザンネ・ビア作品の特徴のひとつだ。しかしその演出をどう捉えるかは人によって異なると思う。彼らが何かを見ようと、あるいは既に目に映っていて、少しでもそこから何かを読み取ろうとしていると考えるのかそれとも目合っても心すれ違うばかりで、その目には何も映っていないのか。私は後者を選択する。

 

ヤコブマッツ・ミケルセン)はインドの孤児院で働いている。財政状況は決して良いとは言えないが子どもたちの笑顔には代えがたい。しかしこのままでは孤児院の閉鎖を考えざるを得ないという状況に陥ったその時、不意に救いの手が差し伸べられる。デンマークのある会社のCEOであるヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)から、面会の為コペンハーゲンに赴くという条件付きで。

ヤコブは渋々ヨルゲンのもとを訪れるが、なんと寄付先は未定だと知らされる。話が違うと苛立つヤコブをヨルゲンは半ば強引に娘アナ(スティーネ・フィッシャー・クリステンセン)の結婚式に招待する。

そこにいたのはヤコブのかつての恋人ヘレネ(シセ・バベット・クヌッセン)だった。彼女はヨルゲンの妻となりアンと三人の息子たちと何不自由のない幸せな家庭を築いていた。戸惑うヤコブをよそに和やかなムードで終わった式の直後、ア招待客たちに向かってこう告げた。私は父の本当の娘じゃない、母と元恋人の子どもなの、と。

 

 

この物語に登場する偽善者とはヤコブとヨルゲンのことだ。心から家族の幸せを願うならば、ヘレネやアナを悲しませたくないならば、もっと上手なやり方があったはずだ。しかし彼は自身の富や慈悲の心をある意味では見せびらかしながらヤコブヘレネを再会させヤコブとアナを引き会わせる。本当の娘じゃないのにこんなに大切に育ててくれたと語るアナの前に本当の父親を引きずり出す。それは彼の自己満足の所業だ。

 

今まで顔も名前も知らなかった本当の父親をアナは無条件に慕う。ヤコブとアナが向かい合って古いアルバムをめくるシーン。カメラ目線の幼いアナはその悲しげな瞳でカメラを手にするヨルゲンを見ていたのだろうか、それともその先の、名もなき本当の父親を見ていたのだろうか。対するヤコブアルバムの写真たちを愛おしげに見ているかというとそうではない。彼はそれまでとは異なる虚空を見つめている。

 

 

ラスト、ヤコブの偽善打ち砕かれる。あんなところ嫌いだって言ってたじゃないか。彼は思わず尻餅をつく。真実の砲弾を浴びせられたからだ。

 

 

そう、人間はこんなにも嫌いな世界と生きていかなきゃいけないんだ。

 

 

“それ”以外のことはすべて忘れなさい

 

 

 

 

 

今回の本:人はなぜ戦争をするのか

作者:アルベルト・アインシュタイン ジークムント・フロイト

2016年 講談社

 

※だいぶ前に書いた記事なので感触がちょっと変わってきていますが、備忘録のためそのまま掲載します

 

 

 

Remember your humanity, and forget the rest.

 

 これは1955年に発行されたラッセル=アインシュタイン宣言の一文

 

あなた方の人間性を心に留め、そしてその他のことは忘れよ。

 

アインシュタインはこの宣言が発行される3か月前に亡くなっており、これは彼から人類への遺言状だとも言われてい。この宣言から遡ること23年、国際連盟アインシュタインにある依頼をした。それはいまこの世界で最も重要だと思われる事柄について、最も意見交換したい相手と書簡を交わしてくださいというものだった。彼は精神分析学の創始者ジークムント・フロイトを指名し、問いかけた。

 

人間を戦争というくびきから解き放つことができるのでしょうか?

(とりあえず私はくびきが何なのか調べた。牛の画像が出てきた)

 

先にフロイトの結論をお伝えしよう。彼は言う。戦争は人間の内なる欲動から引き起こされる(ここであえて欲動と書くのはそれが本能とは明らかに異なるものだからだ)それを消し去ることはできない。しかし文化の発展によって、そ方向性を変えることができるかもしれない。

 

文化の発展彼がこの回答を導き出しておよそ100年経った。この書簡の依頼元である国際連盟は残念ながら第二次世界大戦を止めることができなかった。幸いなことにその後世界規模の戦争は起こっていない。しかし戦争そのものは、残念ながら無くなっていない。戦争形を変え、規模を変え、今に続いている。クラウゼヴィッツの「戦争論」を読んだら少しはわかるようになるかなと思いつつ、手を出せていない。

 

そしてフロイトが提示した戦争を抑制することができるかもしれない、人間の欲動の進化としての文化は、いまどの様な姿になっているのだろう。

 

アインシュタインが提示した「統一」による平和をフロイトはやんわりと避け、「相互理解」による平和を主張した。私たちはみな平和主義者になることができる内なる衝動を抑えることができる。

果たして私たちは彼の期待に応えられているだろうか。フロイトの死後、アインシュタインがたどり着いた人間性の保持という答えの、私たちは何ができるのだろうか

 

常に自分に問いかけ続けよう。私たちにはそれしかできないのだから

 

 

 

 

もう一度、あなたの隣に

 

 

今回の本:作者 中島敦

「李陵・山月記」 1969年 新潮社

 

主要人物は三人いる、李陵、司馬遷、蘇武。タイトルは李陵なのに(実は中島自身は「漠北悲歌」と付けたかったらしい)何故他の二人にも多くのページが割かれているのか。それはおそらく李陵の人間としての弱さを中島が描きたかったからではないだろうか。

 

 

私とこの作品の出会いはかれこれ十五年ほど前、高校生の時だ。私はこの作品の読書感想文で恐れ多くも図書券(500円分)を学校から賜った。校長室で校長先生から寸評も頂き、好きな小説について書くことの楽しさを胸に刻み込んだ。感想文の締めの文を今でも覚えている。

 

「空を見上げてみればよかったのに。私はそっと呟いた。」

 

当時の私は、彼が砂漠ばかり眺めていたせいでより孤独を感じるようになったと思っていた。地平線が365度広がる砂漠、吹き付ける熱風、湿気のない世界。

 

一族を殺された彼に砂漠がさらに追い打ちをかけたと思った。

しかし、いま一度読み返してみると司馬遷と蘇武の存在が彼の孤独をより際立たせていることに気が付く。

 

李陵を擁護した為に屈辱的な刑を受け、それでも史記をまとめあげる司馬遷、異土にあってもなお皇帝に忠誠を誓い続ける蘇武。彼らを前にするとあんなにも勇敢な李陵が途端に弱々しくなる。

 

 

ー全軍斬死の外、途は無いようだなと、又暫くしてから、誰に向ってともなく言った。

 

 

捕虜になる前の李陵は、自軍に紛れ込んでいた哀れな女たちを無慈悲にも殺し、死に戦とわかっていても敵に背を向けずに戦い続けた。勝算があるかどうかは関係ない。

 

彼は部下からの信頼、そして自身の誇りにかけて戦い続けたのだ。そんな彼を匈奴たちは丁重にもてなす。衣食住の不自由をさせず、時には彼に教えを乞うこともある。

 

彼が自身の猜疑心から助言を断っても、激昂したりせず受け入れる。匈奴は野蛮人だと、敵だと教えられてきた李陵からすれば、それは予想外の世界だったのだろう。

 

帰る場所などもうない。しかしこの砂漠に心を埋めてしまうには、彼はあまりに弱すぎた。彼の心はいつも故郷にあった。それはこんな風に乾ききった大地ではない。

 

砂漠を見つめる彼の背中を私は再び想像する。以前の私は彼を慰めているようで、そうではなかった。どこか上から目線でもある。今度は彼にこう伝えたい。彼が固く握りしめた拳を開けるように。

 

 

 

一緒に夜空を見てみませんか。砂漠の星空はきっと、降るように美しいはずですから、と。

 

 

 

by おさいさん

空を見上げて、地に足をつけて歩こう

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実に4回の品切れを乗り越えて手に入れた

今回の本;作者 香山 哲 

     「ベルリン うわの空」 2020年 イースト・プレス

     「ベルリン うわの空 ウンターグルンド」以下同上 

 

 

一人旅が好きだ。二人旅が好きだ。私はとにかく旅が好きだ。国内もいいが、国外の方がより空(くう)になれるので好きだ。私のことを知らない人、私の知らない言語に囲まれながら道端の木の葉のように過ごすのが好きだ。

 

 ベルリンを訪れた際に「ここが好きかもしれない」と思い、でもまだ確信が持てないから「とりあえず」暮らし始めるところから物語(であり事実でもある)は始まる。

 

行きつけのカフェで出会った人たちと仲良くなりミニ新聞を発行してみたり、街中で見かけるシールの写真を撮ってその謎を解いてみたり。私はその「生きている感じ」にとても惹かれた。

根は張らないまでも、一歩歩くごとに地面と足裏がしっかりとくっつくようなイメージだ。普段足裏と大地の接地を意識しながら歩くことがあるだろうか。自分の歩みがきちんと大地を蹴っているのか意識することがあるだろうか。

 

 「やさしさ」という言葉が繰り返し出てくる。しかしそこに押しつけがましさはない。もちろん、ベルリンの人たちに対してここに描かれているようなやさしさを感じるかどうかは人によって違うだろうが、作者の感じたやさしさの表現が絶妙だなと思う。押しつけがましくなく、でもわかりにくくもなく。

街中の張り紙、ご自由にどうぞと書かれた紙きれ、言葉がわからないからゆっくり話してほしいと言える空気感。ゆるすぎず、力みすぎない生がそこにある。このベルリンという街をどう表現するのがいいのだろう。楽園は違うだろうし、終の棲家も違う。とてつもなく居心地のいい寓居はどうだろうか。

 

読後は良い出汁の出たお吸い物を飲んだ時のような充足感に満たされる。明確にしょっぱいとか甘いとかは言えないのだが、おいしいということだけは断言できるような、出汁のうまみ。珍しい読後感だと思う。

 

最後に、私が最も印象に残った部分をご紹介して終わろうと思う。コラムの部分なのだが、ベルリンの街中にはミニ菜園がちらほらあるらしい。人々はそこで野菜を育てる。別に自給自足を目指しているわけではない。野菜を育てるという行為が大事なのであって、収穫量とか出来はあまり関係ない。重要なのは自分で野菜を育ててみること、である。

 

つまり、できることが増えるとたくさんお金を稼がなくてもよくなる。できることが少ないと誰かにお金を払ってそれをやってもらわなければならなくなる(それが悪いこととは思わない)。

でも、自分でできることは自分でやればお金もかからないし、その為にお金を余分に稼ぐ必要がなくなる。無理をしないとできないことは頼めばいいが、ちょっとがんばればできることなら三回に一回くらいは自分でやってみてもいいんじゃない?とりあえず冬用タイヤの交換は天候さえ許せば自分でやり続けようかなと思うある日の私であった。

 

by おさいさん