ドコカンカ書庫

おさいさんとヨモが入り浸る鄙びた書庫

好奇心の切符を抱きて、今日も大海原を行く

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仁川の天井

ヨモさんとは大学で知り合った。同じ学部で、専攻は違うし、サークルが一緒ということもない.でも何故か、私たちは波長が合う。

その波の一つが読書だと思う。

 

ヨモさんの読書遍歴コラム、私も初めて知ることも含まれていて、とても興味深く読ませて貰いました。(星の王子さまの話、いつか絶対しなければ!!)

ちなみに、私はヨモさんの梨木香歩さんの愛し方が好きなので、いつか梨木さんの本の書評、読んでみたいな(という私信含)。

 

私の読書遍歴はというとひどくとっ散らかっているので、今回は第一期(〜中学卒業くらいまで)に印象に残っているタイトルをご紹介したいと思う。いつか一冊ずつ紹介することになるかもしれないけど、その時はその時なので。

 

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とりあえず積み重ねてみた

以前、ヨモさんとTwitterで送り合った本好きが選ぶ最強タイトルのラインナップがこの5冊である。

1 エヴァが目覚めるとき 作者:ピーター・ディッキンソン 1994年 徳間書店

2ボクの音楽武者修行 作者:小澤征爾 1980年 新潮社

3李陵・山月記 作者:中島敦 1969年 新潮社

4ゼバスチアンからの電話 作者:イリーナ・コルシュノフ 1990年 福武書店

(上記写真のは2014年の白水社版)

5プラネタリウムのふたご 作者:いしいしんじ 2003年 講談社

 

1については、私が初めてお札を出して買った本であったことを記憶している。徳間書店の、何か別の本を読んだ時に最後のページにこの本の紹介が載っていて、私は本能的にこれを読まなければならないと思った(ヴという一文字にものすごく惹かれた記憶がある)。その後私は紆余曲折を経て、大学で哲学なんか専攻しちゃったりするのだが、もしその根源はどこですかという話になると、この本にたどり着く。あらすじは割愛するが、私はこの本を読んだときに初めて「自我」と「心」について考えた。

私の心はどこにあって、それは何が起こったら私のものでは無くなってしまうのか。

そもそも自分ってなんだ?自分が自分であると言い切れるその根拠は?

今日、福永武彦の「冥府」を読み終えたところなのだが、またこのエヴァが読みたくなった。エヴァを読み返すことは私にとって帰港なのかもしれない。

 

2は、何がきっかけで読んだのか定かでないが、確か私が小学生の頃、新潮社の夏のブックフェアの小冊子に必ずラインナップされていたように記憶している。

私はこのエッセイを「好奇心の切符」と呼んでいる。

何かやる気が起きないとき、何もうまくいかないと感じた時はこのエッセイを読めば一発で治る、そんな本だ。スクーター一つでヨーロッパの一人旅に向かう小澤さん。飛び込みで参加したコンクールで入賞なんかしちゃったりして、あれよあれよという間に凱旋帰国!

家族にあてた手紙たちのシンプルで潔い文面に、私はいつも励まされる。好奇心や向上心やバイタリティという言葉では片付けられない何かがここにはある。

そういえば、私ついにクラシック音楽に手を出し始めました。小澤さんの若い頃の録音聞いてみようかな。

 

3は高校の頃に読書感想文を書いた一冊。実はこちらの書評はすでに書き終えているので、ここでは割愛。昨年、「悟浄出世」を読んでその素晴らしさに悶絶済み。

 

4は中学生のころに読んだ。今になって思えば私が男女の違いとか格差について考え始めるきっかけになった作品だと思う。

最初は確かに少女の淡い恋みたいな甘酸っぱさをはらんでいるのだが、それが物語が進むにつれて、甘酸っぱさどころか苦味全開の濃いめのコーヒーみたくなっていく。いや、これ本当に児童書?と首を傾げつつ読み終えた私は、、もやもやしつつ本を図書館に返却した。しかし何だか気になってしょうがない。結局、もう一度借りて読み直した。このもやもやを抱えて生きていこうと思った。

白水社による新版は白い装丁だが、私が読んだ福武書店版は真っ黒なカバーで、いまになってみるとこのカバーがすでに主人公、ザビーネの心情を表していたのかもしれない。

 

5 少し前にジョンキーツの「詩人の手紙」を読んでいて、ある一文を読んだときにこの本の、ラストの一文を思い出した。さすがにその一文は完全なるネタバレになってしまうので、ここではジョンキーツの方を引用してみる。

 

ー人間は死ななければならず、星空は常にその頭上遙かな所にある。

 

いしいしんじさんの小説を読むのはどこか心の浄化作業に似ているなと思う。例えるなら、山に流れる水を手で掬って飲むような、その水が喉を通って身体中に染み渡っていく感覚を想像してみてほしい。

しかしちょっとした副作用もあって、ゾンビ属性の敵が聖水を苦手無ように、ずっとそれに触れ続けていると、ちょっと心が爛れてくるなと思う瞬間がある。いしいさんの文章はそれくらい浄化作用が強い。短編ならちょっとずつ読んでいけばいいが、この本くらいの長編となるとそうはいかず、読みたいのに読んでるとちょっと苦しいかもという不思議な感覚を味わう事になる。

もうちょっと素直に浄化されちまおうぜ自分、と思わないこともない。

 

 

第二期をやるかは分かりませんが、第一期はここまで。感覚的に今は六期くらいかな?

 

By おさいさん

私と読書(図書館育ち) ヨモ

書庫と銘打ったブログを開くのだから、自分がいかにして無類の本好きとなったかを辿り、自己紹介に変えようと思います。

家にはあまり本がありませんでした。

全然ない、というわけではなかったのですが、毎月の小学館の幼児~学年誌と絵本が少々、漫画雑誌は「なかよし」。あとは自分で選んだわけでもない、祖父母が買ってくれた本が少々。中でも一等光っていた、祖父が買ってくれた箱入りの「星の王子さま」。
それらを繰り返し読んでいました。

従って、もっと本を読みたければ図書室、図書館で借りることになります。
しかし町の図書館は遠くて、家族に連れていってもらうしかありませんでした。行くと必ず、貸出上限いっぱいの本を借りて帰ったものですが、子供向けの本はきょうだいの分まですべて1日で読み終わってしまって(そして親から、もっと味わって読めなどといって怒られて)、もっと読みたい、といつも思っていました。

そんなわけで、自分でいつでも借りられる小学校の図書室はとても素敵なところでした。
司書の先生がいるわけでもなく、古くてすっかり色あせた本や、かつて中学校があった頃の名残のような、えらく難しい本が置いてあったりするあの図書室、たまに町の図書館から移動図書がくる(みんなが群がる)新しい本に飢えていたあの図書室で、それでも少しずつ世界を広げていました。

(まだインターネットは黎明期、学校にパソコンは有るけれど、年上の人たちがちょっとしたゲームをやっているのを、後ろで見ているだけ。私にとって、世界を広げるツールにまではなっていなかったのです)

高学年になると、古い文学作品に総ルビと語釈、絵釈が入ったものを、内容はどの程度分かっていたものか、ひたすらに読んでいました。夏目漱石がお札にいたので、とりあえず文学はえらいものらしい、と思っていたのでしょう。
これで漢字の読み方、古い道具の名前(煙草盆とか)を覚えました。

このころ、町には新しい図書館ができ(やっぱり遠くではあったのだけれど)、子供向けの本もずいぶんたくさん新しく入って、いまの自分の根幹につながる作者に出会いました。村山早紀高楼方子梨木香歩ダイアナ・ウィン・ジョーンズ。この世界に自分が在るということのとっかかりとなった作品たち。そしてはやみねかおるはミステリの入り口となりました。

中学・高校では、司書の先生がいらっしゃって、読書の幅もずいぶん広がりました。ライトノベル、YAというものが定着した時代にちょうど当たっていたようで、物語の海に溺れていきました。萩原規子、時雨沢恵一森絵都長野まゆみ有川浩京極夏彦小川洋子。シリーズならトリニティ・ブラッド、彩雲国、まるマなどなど。
あとは、町の図書館でテスト勉強に飽きたら、椎名誠のあやしい探検隊や、中島らもなどを読んでいました。

大学では人文学方面に進み、図書館の書庫を徘徊していました。胡散臭い妄想を、さも学説であるかのように書き連ねた本を読みながら、こんな本でも出版されるのだな、書庫行きやむなし、収蔵されているのが奇跡、と思ったものでした。
このころ、友人に借りて、西尾維新冲方丁に出会いました。

その後、なんとか社会人になると、自由にできるお金が増えて、今度はよく本屋に行くようになりました。読みたい本を手元に置ける、美しい本を所有できる喜び!
ここで問題なのは、本屋には一度に買える冊数の上限がない、ということ。あるのは財布の中のお金の制限だけ。そして今日置いてある本が次に来たときにもあるとは限らないという事実。そして図書館で身についた、面白そうな本があると片っ端から手に取る癖…。

そうして、今日も家には本が増え続け、積ん読やら読みさしやらの山が形成されています。

(以上の事実から、図書館は決して本屋さんの敵ではない、ということも証明できたのではないでしょうか?)

近年は車通勤であることも相俟って、学生の頃に比べてすっかり読書ペースは落ちていますが、ぼちぼちと感想を書いていけたらいいな、と思っています。f:id:dokokanka_syoko:20210703122615j:plain

利口で素晴らしいひとになるか、賢く立派な人になるか

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時を経て新訳

今回の本;作者 J.D.サリンジャー

     サリンジャー選集2「若者たち」収録「最後の休暇の最後の日」

     1968年荒地出版社 渥美昭夫訳

     「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」収録「最後の休暇の最後の日」

     2018年新潮社 金原瑞人

 


 サリンジャーのファンは多い(私の周りではハルキストよりサリンジャーのファンが多い)。私ももちろんそのひとりだ。彼の数少ない著作を読み漁り、感慨に耽り、人生を憂えるひとりである。

 

ライ麦畑でつかまえて」は彼の代表作であり、彼をこの作品で知った人も多いだろう。あるいは「バナナフィッシュにうってつけの日」から連なるグラースサーガに魅了される人。「フラニーとゾーイ」は何度読み返しても面白い。フラニーが巡礼の道の話をするところなんてあまりに好きすぎて洋書を買って翻訳と比較してしまったくらいに好きだ(気ちがいのおさいさん)。

 

しかしあえて、あえて一つだけ選ぶとしたら(それが不毛なことくらい知ってるけれど)

私は「最後の休暇の最後の日」こと「The Last Day of the Last Furlough」を選ぶ。

 

この物語はライ麦畑でつかまえての主人公ホールデンの兄ヴィンセント・コールフィールドが登場する短編であり、主人公はヴィンセントの友人ベーブ・グラドウォーラー。

彼はいま「最後の休暇」の真っ只中だ。

この休暇ののちに彼は戦地へと向かう。そう、第二次世界大戦へと。

 

彼と彼の家族たち(両親と妹)、そしてヴィンセントを交えて食事をする場面がある。

ベーブの父親は第一次世界大戦に従軍した経験があり、ことあるごとに当時のことを自慢げに語る癖がある。招待された身なのでヴィンセントは調子を合わせて機嫌を取っているが、ベーブは耐えかねてついに口を開いてしまう。

 

以下、二つの翻訳から引用です。

 

 ーときどき、パパが戦争のはなしをするとき、パパの年代の人たちはみんなそうなんだけど、まるで戦争って、何か、むごたらしくて汚らしいゲームみたいなもので、そのおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえるんだな。

1968年荒地出版社 渥美昭夫訳

 

ー父さん、偉そうにきこえるかもしれないけど、父さんは先の大戦のことを話すとき、父さんたちの世代の人はみんな同じで、ときどき、戦争は泥まみれになってやる荒っぽいスポーツみたいなもので、自分たちはそれをやって大人になったみたいな言い方をするよね。

2018年新潮社 金原瑞人

 

ベーブは言う。ぼくはこんどの戦争は正しいと思う、と。だって、他にどう考えればいいんだろう。

 

初めてこれを読んだとき、私は背後から棍棒で殴られたみたいな衝撃を受けて、しばらく自分が息をしているのかどうかもわからなくなった。

彼は知っている。戦争が何も生み出さないことを。

彼はそれが始まる前から知っていたのだ、全てを。

それを想像することしかできない、私は何て、何て無力なんだろう。

 

 

間違ったことを言ったかな?とはにかむベーブにヴィンセントは言う。(この部分の翻訳は渥美版のほうが好きなのでそちらを引用する)

 

ーいいや。でも君は人間に多くを期待しすぎると思うな

1968年荒地出版社 渥美昭夫訳

 

私はここですっと掬われる(救われるのではなく掬われる)。ベーブがまだ人間に絶望しきっていないことをヴィンセントが教えてくれたのだ。

 

 

 

その夜、ベーブは妹のマティーに心の中で語りかける。

小さな少女はいつの日か大人になり、つまらないことに囲まれて生きること、でも生まれた時から持っている最上の部分は失わすに生きていって欲しいこと。

彼はあたたかな言葉で語りかける。

 

そう。

彼は、まだかろうじて人間に期待している。人間が戦争に向かっていくだけの生き物出ないことを心のどこかで期待している。それが、唯一の救いだ。

 

私はその期待に応えようと、その期待に応えるのはどうしたらいいのかと、

日々もがき続けているのである。

 

by おさいさん 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間を無駄にしたくないは、時間をあっという間にしたくないの表れかもしれない話

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庭のチューリップ


 

はじめまして、おさいさんです。

 

このブログを始めようと思い立ち早半年。ようやく重い腰をあげて開設に至りました。

概要欄にもありますが、ここはどこかの街のどこかの片隅にある小さな書庫です(多分間借り)。

 

普段は仮の姿(会社員)で現実に不平不満を頂きつつも、いや、お金貰ってるしな‥と思いつつなんとかやり過ごしているおさいさんが紆余曲折を経て、結局好きなんだなと思うに至った本の感想を書き散らかす予定です。

 

最近の読書傾向としては、現実の本にちょっと飽きたから電子書籍でも読むかみたいに思うことがあります。現実の本に飽きるってなんだよって感じですが、電子ペーパーの読み触り?心地?に時々触れたくなることがあります。

基本は現実の本、実体のある本が好きです。本棚がそろそろやばいです。でも手放す気にはさらさらなれず、床が抜けたらどうしようかなと考えるだけです。

 

さて、本題。

 

一昨日、友人と話していた時に、元来めんどくさがりな私が最近やたらと休みの日にも何かをしているという話になった。

何かというのは、コーヒー淹れたり、お菓子を作ったり、ピアノの練習をしたり、読書したり、サボテンに話しかけてみたり、と文字にしてみると大したことしてないですが、以前の自分に比べると結構アクティブ。いやもうめちゃくちゃアクティブ。

 

リビングに寝転がってうだうだしていることもあるにはあるけど、それだけで一日を終わらせることはしたくないという無意識がどこかにある。

 

楽しい時間はあっという間だとよく言う。

でも楽しくない時間(主に仕事)もあっという間だ。

どちらも終わってみると「あっという間」になっている。

この事実に私はようやく気がついた。

 

今のところ、私の中で過去は全て「あっという間」のカテゴリに入っている。

どんなに楽しかった時間も、退屈でたまらなかった時間も、全ては過去というカゴに入り、それを「今」の私が見ると、どちらも「あっという間」だ。

 

イメージとしてはアコーディオンのふいごの部分の動き。

「今」として自分がその渦中にいる間はふいごが伸ばされ、時間が進んでいくにつれて段々とそのふいごは縮んでいき、最終的に「今」が「過去」になるとそれはぺったんこになってしまう。過去になった膨大な時間はそうやって薄いレコードを収納するかのように蓄積されていく。

 

しかし、そのふいごが伸ばされている瞬間の広がり具合は、私たちがその時間をどう過ごしたかによって違うのではないか。

つまり私は、怠惰に寝転がったりすることでふいごをちょっとだけ広げるのではなく、

何か、何でもいい、ふいごをもうちょっと引き伸ばす為に足掻いているのだ。

最終的にその時間がぺったんこになるとわかっていても、せめてその時間が自分の目の前にある時だけは広がりを持たせたい。そんな気持ちで足掻き始めたわけだ。

 

ここで注意したいのは

「時間がない」と思いつつ色々なことをやるのとはちょっと違うということだ。

スケジュールを細かく組んで、計画通りに全てをこなしていくのはどちらかといえば

「時間がない」の世界で、それはふいごを広げるのではなく縮めている。

私はあくまで「これをやろう」と思うだけで、

それを何時までに、このくらいの出来で終わらせようとは思っていない。

 

時間論についてはまだ不勉強なもので、これくらいにしかまとめられませんでした!悪しからず!

 

とりあえずここ数日で時間論を学ぶには、アリストテレスベルクソンとカントを読まねばならぬと知ってちょっと絶望している。だってカントってラスボスやんか…それくらい私も知っとるよ…。

 

みなさまよい週末をお過ごしください。

 

 by おさいさん